ゆかりの人物

山口県下関市長府土居の内町1-6 長府支所内
長 府 観 光 協 会
TEL 083-241-0595 FAX 083-246-1130



 長府藩士。長府藩報國隊士。嘉永2年生まれ、1868年(明治元年)7月22日北越戦争にて戦死。

第3代奇兵隊総督。

赤穂浪士については皆さんもよくご存知でしょう。この赤穂浪士が討ち入り後の1702年12月15日に、赤穂浪士47人の内、岡島八十右衛門ら10人が長州藩の支藩にすぎない長府藩江戸邸に預けられたのです。そして、1703年2月4日切腹となったのです。
 なお、赤穂浪士の遺品が日露戦争で活躍した乃木大将を祭った乃木神社(長府)の宝仏殿に、また、下関市立長府図書館には赤穂浪士を預かっていた記録が残されています。

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尊氏の残した和歌(重要文化財)が忌宮神社に残されています

長府藩士。1846年1月13日生まれ。1863年(文久3年)8月22日長府藩の青年武士によって結成された精兵隊の発起人の一人であり中心人物でしたが、1863年11月27日脱藩したことから精兵隊は解散となります。1864年(元治元年)7月19日京都蛤御門の変にて戦死。

 初代内閣総理大臣。松下村塾門下生。1841年9月2日生まれ。1864年(元治元年)12月15日高杉晋作が起こした功山寺(長府)挙兵に力士隊を率いて行動を共にします。明治政府では初代内閣総理大臣となります。1909年(明治42年)10月26日満州ハルピン駅にて遭難し死去。

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長府藩士。敬業館教授。1864年(元治元年)6月21日京都で暗殺されました。

1883年(明治16年)1月14日、長府毛利家に仕えた家系植村正太郎の長男として生まれる。1904年(明治37年)豊浦中学校(現豊浦高校)を卒業。
 熊本陸軍幼年学校へ入学するが、健康に恵まれず中退。その後、九州大学医学部へと進むが病いのため学業を断念します。その後、「女流俳人田上菊舎」に心惹かれ「女俳人菊舎」を箸し、菊舎研究の第1人者となりました。1920年(大正9年)10月、37才の若さでこの世を去りました。
 尚、下関市立長府図書館には彼が収集した医学書500冊が寄贈されています。墓は大乗寺にあります。

大内氏は、室町時代の守護大名として中国一円を従え、山口市を都に栄えます。しかし、重臣・陶晴腎の反逆により、大内義隆が長門深川大寧寺で自害。陶晴腎が再興した大内義長も毛利元就に追われ、1557年4月3日長福寺(現功山寺:長府)にて自害しました。
 これにより大内家は滅亡し、周長の両国は毛利氏の有となったのです。お墓は功山寺にあります。

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大内義長墓:功山寺

敬業館学頭。長府藩の儒臣。父は長府藩11代藩主毛利元義の侍医松岡道遠(まつおかどうえん)。1835年10月16日死去。

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・1980年(昭和55年)4月11日指定 有形文化財 考古資料
・両袖式の横穴式石室で6世紀後半の築造と考えられ、出土した4個の新羅系陶質土器は県内における唯一の出土例です。その他にも鉄鎚等貴重な出土があります。 
・場所:下関市立長府博物館(下関市長府川端1丁目)

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長門尊攘堂(創建時)           『万骨堂』 

俳人。弁護士。本名は理蔵(りぞう)。
 1890年(明治23年)3月27日、山口市に生まれる。家は徳山藩に仕えた学者の家系。県立豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校:長府)から旧制第五高等学校を経て、京都大学法学部を卒業。
 1924年(大正13年)下関市にて弁護士開業。戦後、徳山市に帰郷。
俳句は中学時代から始め、『日本及日本人』ー河東碧梧桐選により地位を確立、以来、碧梧桐門下として過ごす。また六朝書体の最後の書家であり、交遊のあった種田山頭火の墓表もかいている。
 著書に、『觸目皆花』『地橙孫句抄』、俳論『清明の道』がある。1957年(昭和32年)9月3日死去。1994年(平成6年)1月23日、句碑が長府観光会館の壇具川沿いに建立された。山口県徳山市にも2基建っている。

*尚、この本文は兼崎地橙孫氏の娘さん吉田紗美子さんによるものです。

近代日本画の父と言われ活躍した狩野芳崖の父。もとの姓は諸葛。諱(いみな)は薫信、号を松隣と言います。
 狩野派の宗家、伊川院栄川に入門し、その技術がずば抜けていたため、狩野を名乗ることを許されました。絵のほかに、彫刻や鋳金にも才能を発揮し、なかでも刀剣を研ぐことにも妙をえていたと言われています。
 また、1864年(元治元年)四ヵ国連合艦隊との講話談判には長州藩の代表として高杉晋作・村田蔵六・通訳伊藤俊輔など使節団の絵図係(現在の写真班)として同行しました。
 この時のエピソードとして、交渉が決裂寸前になった時、晴皐は鼻紙を取り出すとそれを裂いて全員に配った。そして、コヨリを作り出した。それをみた英国人も懸命に作った。晴皐は出来上がったコヨリを鼻に差し込んで大きなクシャミをした。これを見た者たちが、これにならってコヨリを鼻にさし一斉にクシャミをする。一同爆笑の渦になり、以後なごやかに交渉が進んだという。
 1867年(慶応3年)8月25日死去。覚苑寺内に墓誌。

1828年1月13日長府藩御用絵師狩野晴皐の長男として、長府印内で生まれました。狩野雅信について10年間絵の修行を行いました。明治に入り西洋文明の進出から日本画が衰退異する中で、芳崖は闘病と生活苦と戦ながら画家活動に励みます。芳崖が57歳の時、帝国大学(現東京大学)で講義していたアーネスト・フェノロサの援助により新しい進路が開かれました。その後、首相の伊藤博文を説得し、美術学校(現芸大)の創設にこぎづけたのです。1888年11月5日死去。1979年(昭和54年)11月4日銅像が覚苑寺境内に建立されました。

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 1901年(明治34年)8月11日下関市赤間町で生まれました。旧制豊浦中学校(長府にある現在の豊浦高等学校)を1919年(大正8年)卒業。
 1921年(大正10年)山口県で初の「海峡オーケストラ」を結成。作家武者小路実篤、画家藤田嗣治、声楽家三浦環・藤原義江、作曲家山田耕作やヘレン・ケラーなどと親交を重ねながら芸術文化を楽しみます。戦後、上京し培った芸術の目と心で次々と美術品を収集。河村コレクションは「数千点」と言われています。
 1983年(昭和58年)11月18日開館した下関市立美術館の名誉館長となり、この美術館への寄贈した作品は岸田劉生や梅原龍三郎など268点に上ります。1987年(昭和62年)8月13日、河村氏がよく話していた“芸術は魂のたべもの”という文字が刻まれた碑が市立美術館の屋外で除幕されました。
 1994年(平成6年)1月25日、前日24日に亡くなられた夫人の後を追うように死去されました。

 アメリカやイギリスなどの四カ国連合と戦うために、高杉晋作の発案により結成された奇兵隊ですが、やがて四カ国連合だけでなく幕府との四境戦争や戊辰戦争など活躍します。
 この奇兵隊ですが、高杉晋作の功山寺挙兵には賛同しませんでした。また、1864年(元治元年)11月16日に山口から諸隊に守られながら、長府功山寺に入った尊攘派の公卿三条実美ら七卿ら警備のため、長府覚苑寺に本陣をかまえます。

長府藩報國隊軍監。集童場場長。1846年(弘化3年)長府藩士熊野吉右衛門の長男として生まれました。
 藩校敬業館にて、泉十郎(野々村勘九郎)や有川恒槌らと学び、1863年(文久3年)17歳の時、長府藩主毛利元周(もとちか)に従い江戸に遊学します。1864年に福田扇馬とともに「集童場」を開き場長となりました。
 1865年(慶応元年)2月長府藩報國隊を結成しその参謀となります。1866年(慶応2年)の小倉戦争では軍監として参戦し奇兵隊と共に活躍。その後も報國隊を率いぼしん戦争に参戦しますが、1868年(明治元年)6月2日北越戦争にて22才という若さで戦死しました。

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「熊野則之君記念之碑」
(忌宮神社)

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1835年11月15日土佐国生まれ、1862年(文久2年)脱藩、同じ年に江戸で勝海舟に入門。明治維新の中心人物として活躍します。
 慶応2年1月23日(1866年3月8日)に起こった伏見奉行配下の捕り方により、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬が襲撃された時、同宿の(護衛)三吉慎蔵の働きにより難を免れました。この三吉慎蔵が長府藩士であることもあり、長府へも幾度となく訪れています。
1867年11月15日京都にて暗殺されますが、下関市立長府博物館には数多くの遺品が残されています。

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坂本龍馬供養石
万骨塔(下関市立長府博物館横)

1880年(明治13年)山口県柳井市に生まれ、13歳の時に下関に移り住みました。15歳の時船員となり渡米。1907年(明治40年)、万国飛行大会を見て感激しカーチス飛行学校に入学します。2年後、パイロット試験に合格、世界で225番目のパイロット、東洋人として「最初の空の開拓者」と名を残すことになりました。
 その後、ハリウッド公園に佐村飛行学校を開校し日本人飛行士を育てました。また、カーチス飛行学校で教官をしていた時、入学してきた南部よね(東洋人として女性飛行士第1号)と出会い結婚。1923年(大正12年)妻と共に帰国。
 下関に帰ってきた夫妻は、関門洋裁学校を阿弥陀寺町の春帆楼の下に開校しました。これは日本における公認洋裁学校の草分けになります。
 この二人の偉業を称え、1953年(昭和28年)、関門洋裁学校の卒業生及び在校生並びに航空関係者らにより、長府功山寺境内に碑が建てました。

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航空界洋装界・功労者
佐村福槌君夫妻之碑

 尊王攘夷派の代表的公卿。1863年(文久3年)8月18日、京都で薩摩などによるクーデターが起こり、長州藩は京都を追われます。この時、尊攘派の公卿であった三条実美、沢宣嘉(さわのぶよし)、錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)、三条西希知(さんじょうにしすえとも)、東久世通とみ、壬生基修(みぶもとなが)の七卿もこれに同行し長州へ落ち延びます。のちに沢宣嘉・錦小路頼徳は病死等により五卿となり、各地を転々としたのち、1864年(元冶元年)11月17日山口から諸隊に守られ長府功山寺に入りました。この時、奇兵隊は長府覚苑寺に本陣を置きます。
 同年、12月15日深夜日本歴史上大変革となる“功山寺挙兵”が起こります。長州藩士高杉晋作が功山寺の五卿へ挙兵の挨拶に訪れたのです。この時、高杉晋作は五卿に向かい「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と別れを告げたのです。これを契機に時代は維新回天と向かいました。
 その後、五卿は翌年1865年(慶応元年)1月14日長府外浦から船で筑前太宰府へと向かったのです。

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国宝「功山寺」

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七卿(五卿)潜居の間

文化9年3月7日生まれ。下関(竹崎)の廻船業。高杉晋作発案による奇兵隊創設に自ら参加し、また高杉晋作を始め多くの志士たちに援助を惜しまず、彼の日記によると白石邸を訪れた志士は約400人。まさしく明治維新の隠れた功労者です。
 明治維新後は明治10年12月から明治13年8月まで、赤間神宮(下関市)の第二代宮司(初代宮司は笠原頼十郎(かさはららいじゅうろう:明治8年10月7日から明治10年12月))を務めました。1880年(明治13年)8月21日病死。現在、白石家の浜門が長府松小田町に移築されています。

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白石正一郎宅跡(中国電力下関営業所)


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 松陰門下生。1839年8月20日山口県萩市(長州藩)で生まれました。吉田松陰の松下村塾では久坂玄瑞と共に学び、村塾の双璧と呼ばれました。
 幕府による長州征伐に対し、藩論統一のため長府覚苑寺に本陣を構える奇兵隊などに決起を呼びかけますが、時期尚早など反論を受け、結局1864年(元治元年)12月15日、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊らわずか80人程度で兵を挙げ、長府功山寺に潜居していた三条実美(さんじょうさねとみ)ら五卿に向かい「ただいまより長州男児の肝っ玉お見せし申す」と決意を表明し挙兵したのです。この決起がやがて明治維新を引き起こし、武士の時代を終わらせるのです。
 また、1866年幕府による第2次長州征伐による四境戦争で高杉晋作は小倉藩などと壮絶な戦いをしますが、この時奇兵隊だけでは兵が足らず、長府藩主に長府藩報國隊の参戦を願いでました。そして、奇兵隊・長府藩報國隊ら約1000人の兵を持って戦い、8月ついに小倉城を攻め落したのです。1867年4月14日新地(下関市)にて病死。
  長府藩士だった桂弥一が設立した現下関市立長府博物館(功山寺横)には高杉晋作を始め、坂本龍馬など多くの明治維新で活躍した志士達の遺品が残されています。

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高杉晋作ひ孫
高杉勝さんによる絵です

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功山寺境内の晋作像

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高杉晋作回天義挙之所碑
(功山寺前)

女流俳人。1753年10月14日長府藩士田上由永の長女として生まれる。本名「みち」。
 1768年(明和5年)16歳の時、村田利之助と結婚するが24歳の時に死別。田上の実家に帰ります。
 1780年(安永9年)、28才の時に俳句の修行のために、尼になり、以後一生を旅から旅を重ねます。1781年(安永10年)2月末、美濃国を訪問し、獅子門の宗匠「朝暮園傘狂(ちょぼえんさんきょう)の門に入り「一字庵」の号を受け、のちに「一 字庵菊舎尼」を使用しました。1826年(文政9年)8月24日旅で明け暮れた一生を長府で終えました。功山寺、大乗寺及び長府庭園前にに句碑が建っています。また、長府金屋町の徳応寺内には頌徳(しょうとく)の碑があります。

長府藩士。長府報國隊士。集童場門下生。日本マッチ王。神戸商工会議所会頭。
 嘉永4年(1851)11月21日長府で生まれました。幼名を百十郎。14才の時集童場に入学、乃木希典や桂弥一らと勉学に励みました。
 明治元年、報國隊に加わり戊辰戦争に参加。その後、工部省(現通産省)の役人となりましたが、実業家に転身。神戸でマッチ製造会社を設立します。明治18年上海への輸出を手始めとし、香港やアメリカへと販路の拡張に成功し、「日本のマッチ王」の異名をえるまでに発展します。また、神戸市内の公益事業(ガス・電車・電力など)にも経営手腕を発揮し、神戸商工会議所会頭をはじめ多くの要職を務めました。大正14年(1925)1月12日病死。

1864年(元治元年)11月が蛤御門の変で敗れた長州藩の勢力挽回を計るために1865年(慶応元年)2月14日、長府藩士熊野直介・福原和勝・熊野九郎ら20人が中心となり、豊功社前で「決死報國の盟約」をもって86人で結成されました。総督は野々村勘九郎(のちの泉十郎)。本陣を下関の椋野に置き倒幕を目標に、藩内指揮を盛り上げました。のちに約400~500人の規模となります。
  幕府との小倉戦争では、奇兵隊らだけでは兵が足りず、高杉晋作が長府藩主に報國隊の参戦を願い出ます。そして、奇兵隊と共に活躍しついに小倉城を落とすのです。その後、北越戦争にも従軍し明治維新に大きく貢献したのです。
  小倉戦争や北越戦争など長府藩報國隊は欠かせない存在で、明治維新への貢献は奇兵隊と共に非常に大きいものですが、近年まであり表面に出ることがありませんでした。 また、この北越戦争で戦死した報國隊や奇兵隊など長州の兵士たちが、地元会津の人達になどに手厚く葬られています。数年前、小千谷市へ長府観光協会などが表敬訪問致しました。




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長府藩報國隊顕彰之碑」
(豊功神社)

仲哀天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)の第2皇子として生まれました。西暦193年6月熊襲(九州の豪族)の反乱を鎮静するために、瀬戸内海を下り穴門豊浦の津(現長府忌宮神社境内)に入りました。翌月、神功皇后を角鹿(現福井県)から呼び寄せ、9月に仮皇居として「豊浦宮」を建て(現長府忌宮神社)7年間祭事を行ったと言われています。
 西暦195年には秦のコウマンオウより絹が献上され、日本においてのシルクロード上陸地となりました。
 また、西暦198年には塵輪(じんりん)を総大将とする敵に襲来されましたが、仲哀天皇自ら弓を取り塵輪を倒したと伝えられ、この戦勝を祝福したことから天下の奇祭「数方庭祭」が始まったと言われています。
 その後、西暦200年九州筑紫にて崩御され、遺体は神功皇后により日頼寺(長府)の丘に仮埋葬されました。現在、この丘は宮内庁の管轄となっています。

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仲哀天皇「御殯斂地」
宮内庁管轄地

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仲哀天皇
「御殯斂地」立看板

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 1890年(明治23年)和歌山県串本で生まれました。服飾研究の向上に燃え渡米。ロスアンゼルス市で洋裁研究所を経営します。その後、飛行機に興味を持った彼女は、佐村福槌(さむらふくつち)が教官をしていたカーチス飛行学校に入学し、東洋人 として女性飛行士第1号となります。
 その後、佐村福槌と結婚。1923年(大正12年)夫と共に帰国。下関に帰ってきた夫妻は関門洋裁学校を阿弥陀寺町の春帆楼の下に開校しました。これは日本における公認洋裁学校の草分けになります。
 この二人の偉業を称え、1953年(昭和28年)、関門洋裁学校の卒業生及び在校生並びに航空関係者らにより、長府功山寺境内に碑が建てました。

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二人の偉業を称え、
功山寺参道に建立された碑

長府藩士。陸軍大将。1849年11月11日江戸麻布の長府毛利藩邸に生まれました。10歳の時、長府へ帰り集童場で学びました。西郷隆盛による西南の役では官軍として参戦。日露戦争では、露軍の旅順攻めのために編成された陸軍第3軍の司令官として活躍しますが、部下の約半数を死傷するなど苦戦の末での攻略で、乃木大将自身愛息二人をこの戦争で失いました。
 また、この戦争後、降将ステッセル中将をいわゆる「水師営の会見」で武士道精神をもって遇したことは有名な話です。
 その後、学習院長などを務め、祖国愛と忠孝の道義に徹した至誠の人で、1912年9月13日明治天皇崩御の時、夫妻で殉じました。
 文武両道の神として、1920年(大正9年)1月30日乃木神社(長府宮の内町)が創建。 乃木神社には乃木希典夫妻の銅像が建立されています。また、1939年(昭和14年)11月24日覚苑寺には銅像が建立されました。

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乃木希典像
(覚苑寺)

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乃木希典愛用の単眼鏡
(長府博物館蔵)
※直木賞作家古川薫さんに寄稿頂いたものです。

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203高地の松:乃木神社
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乃木神社正面

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乃木希典夫妻像:乃木神社
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乃木家旧宅:乃木神社

長府藩士。長府報國隊都督。前名は野々村勘九郎。1839年(天保10年)長府藩士萩野十郎左衛門の三男として誕生。のちに野々村家の養子になりました。その後、江戸に出て千葉周作に剣を学び、長府藩での剣客として知られるようになります。
 1863年(文久3年)8月22日長府藩の青年武士によって結成された精兵隊の発起人の一人です。その後、七卿都落ちの三条実美らを護衛し、長府藩報國隊が結成されたときには都督となり活躍しました。この三条実美ら五卿が功山寺に潜居したとき、護衛したのは長府藩報國隊です。
 ところが、慶応元年11月27日、報國隊の軍監だった熊野九郎(長府藩俗論派)と対立し、ざん言によって汚名を着せられたまま死罪を命ぜられ功山寺で切腹したのです。若干27歳。報國隊結成後わずか9ヶ月の事件でした。

旧野々村家表門及び練塀について
 1979年(昭和54年)12月7日下関市指定有形文化財。 切妻造り棧瓦葺きの表門は薬医門と呼ばれる物です。門の主柱が中心線より前方にあり、後方に控柱が立っている構造が特色です。
場所:下関市長府南の町

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集童場門下生。長府藩士。日本海軍創立貢献者。
 1850年(嘉永3年)11月15日豊浦藩士江本重興の第2子として生まれました。幼くして同藩の服部家を継ぎます。
 1866年(慶応2年)3月、16才の時英国に留学。海軍練習艦隊の生徒になり、航海術を学び、1873年(明治6年)海軍省が招いた英国教師と共に帰国。海軍大尉となります。1877年(明治10年)西南の役に従軍、戦功をあげ海軍大佐となる。
 1881年(明治14年)英国皇孫が来日、その接待の任につきます。1882(明治15年)2月、病気のため帰郷。1886年(明治19年)12月13日35歳の若さで病死。日頼寺に埋葬。功山寺内に墓誌銘の碑があります。

長府初代町長。1858年(安政5年)4月9日関峠(せきだお)の旧宅で原田権太夫の三男として生まれました。幼名は米三郎、長じて尚道と言いました。 
 1863年(文久3年)2月8日父の隠居により家督を相続、御番組頭となり200石を拝領。1864年(元治元年)4月、7歳の時集童場の門を叩きます。1872年(明治5年)名を政佳と改め、翌年の春東京勧学義塾に学び、明治16年豊浦郡役所出仕となります。明治19年5月29歳で豊浦村ほか2村1町の戸長になり、以後村長・町長を50年間務めました。
 終始長府の発展に骨をけずり、常に「長府はわが家、町長はその家長、道路はわが家の廊下の延長である」と口癖のように言ったといいます。朝早くから町内各所を見て廻り、道路補修と花木の愛護に務めました。彼が植えたという川端下流の柳や印内川沿いの楓の樹木等は今でも長府の町に風情をただよわせ風にそよいでいます。
 1958年(昭和33年)に碑が建立され、1987年(昭和62年)に現在の長府図書館前の池のそばに移されました。

集童場教授。1846年(弘化3年)1月17日長府南之浜で生まれました。幕末長州の学者として知られています。結城香崖(1817~1880)に学び、1856年(安政3年)10歳で藩校の敬業館に学び、学資の支給を受け、後に助教の資格を得ます。
 その後、誰もが教育を受けられることを目的とした私塾“桜柳停”を自宅に開き、1864年(元治元年)熊野則之、福原和勝らと共に藩主に教育の場として、後に松下村塾と言われ乃木希典など多くの偉人を輩出する“集童場 の開設を建議、熊野則之を助け実現に努めます。集童場では教授となり、その豊富な知識に生徒の人気が高かったと言われています。1892年(明治25年)11月27日長府にて病死。

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忌宮神社内

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天保5年3月20日生まれ。1857年(安政4年)吉田松陰の松下村塾に入ります。また、藩の西洋学術研究所に入り洋学を学びました。1863年(文久2年)久坂玄瑞らと脱藩しますが、後に帰藩し七卿御用係を勤めます。1865年12月15日高杉晋作が伊藤俊輔(後の博文)や石川小五郎らわずか80人を率いて起こした功山寺挙兵に行動を共にします。1868年(明治元年)の北越戦争では参謀となり、さらに参議に進み兵部大輔になります。明治3年病のために退き帰郷します。その後、1876年(明治9年)10月新政府に対し不満の士に推されて萩の乱を起こしますが敗れて12月萩で処刑されました。時に42才でした藩士。

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前原一誠供養石
(万骨塔:長府博物館横)

1701年(元禄14年)生まれ、浜田藩松平家の江戸屋敷の側室岡本道の召使いとして奉公したが、道が同家の局(つぼね)河合沢野の履物を間違えて使用したことから、二人の間に争いが生じ、道は追い詰められて自害しました。さつは沢野を刺し、主人であった道の仇討ちを果たしました。
 そして自分も死のうとしますが、真相を知った藩主が、松尾と改名させそのまま屋敷の奉公させました。長府印内の妙真寺が生誕地跡といわれ、長府中の町の本覚寺にお墓があります。

1831年(天保2年)10月11日長府藩士小坂土佐九郎の次男として生まれ、安政四年(1857)三吉十蔵の養子に迎えられました。文武両道に秀で、藩主の信任厚い慎蔵は、1863年(文久3年)8月22日長府藩の青年武士によって結成された精兵隊の監督となります。また、山口在藩役や東豊浦郡代などを歴任し、慶応元年(1865)には永代馬廻格に遇せられました。
 慶応2年正月、慎蔵は印藤聿の紹介で坂本龍馬と初めて対面し、藩命を受けて上京、薩長同盟締結直後の同月24日夜、潜伏中の寺田屋で龍馬とともに遭難し、以後龍馬と慎蔵の関係は親密なものとなりました。また、慎蔵は龍馬のみならず、西郷隆盛や中岡慎太郎など明治維新の実現に多大な功績を残した人々とも交流を重ねています。また、龍馬暗殺の悲報を龍馬の妻お龍へこの慎蔵が伝えたと言われています。
 維新後慎蔵は、明治の元勲たちと交流を続けましたが、自ら高位高官を望むことなく、長府毛利家の家扶として亡くなる数日前まで出務し、1901年(明治34年)2月16日病死しました。墓は功山寺にあります。
 *尚、平成13年(2001年)は三吉慎蔵没後百年を記念し、長府博物館で企画展「三吉慎蔵と坂本龍馬」が開催されました。

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三吉慎蔵没後100年特別寄稿(平成13年)

「三吉慎蔵のこと」

直木賞作家 古川 薫

 三吉慎蔵のことを知る人は意外にすくない。長府に住んでいても、三吉慎蔵の名を聞いて「ああ、あの侍か」とうなずく人はまれであろう。歴史は風化していくから、それも仕方がない。でも記録だけは残しておきたいものだ。
 下関教育委員会発行『下関の人物』にも記載がない。大和書房『山口県百科事典』は、県下の歴史上の人物をかなり詳しく取り上げているが、それからも三吉慎蔵の名は落ちている。大変残念でならない。

乃木さんの槍の兄弟子
 さて、その三吉慎蔵は長府藩士である。天保2年(1831)、長府藩士小坂土佐九郎の次男として生まれた。幼時、田辺家、ついで三吉家の養子となった。
 中村安積について宝蔵院流の槍をならった。藩内きっての槍のつかい手だった。乃木希典も少年のころ中村安積について槍をならっているから、この道では乃木さんの兄弟子ということになる。
 しかし、慎蔵は乃木さんより18も年上だから、両者の接触はないままだった。慎蔵は一世代前の人物で、乃木さんよりも少し早いころの維新動乱期に活躍した長府藩士である。
 坂本龍馬が下関に出入りしはじめたのは、文久年間からで、同2年(1862)土佐を脱藩したときは、真先に下関の白石正一郎を訪ねている。また薩長連合の画策にあたってはむろん下関が謀議の場所となったし、その後もしばしばやってきた。つごう約10回ぐらい来関している。
 三吉慎蔵を坂本龍馬に引き合わせたのは長府藩士印藤肇(いんどうはじめ)で、それは慶応2年(1866)が明けたばかりのころ坂本龍馬の仲介で薩長連合の話が煮詰まる直前だった。

坂本竜馬とともに活躍
 時局が重大な方向に動いていることを知った長府藩では、三吉慎蔵に京都の探索を命じた。そこで慎蔵は京都に急ぐ龍馬と一緒に下関を出発したのだっだ。
 二人は伏見の船宿寺田屋に入り、龍馬は1人で京都の薩摩屋敷に行き、1月23日に戻って、慎蔵に西郷・桂会談の結果を教えてやった。翌24日夜、伏見奉行配下の襲撃を受けたのは、二人の話がはずんでいる頃である。
 慎蔵は得意の槍をふるって戦い、龍馬はピストルを発射して応戦、二人をたおした。しかし、横から斬りつけてきた敵の刀を龍馬がピストルでうけとめ、そのとき右手の親指から人さし指の根元をざっくりと斬られてしまった。
 龍馬と慎蔵は、別の階段から路地にのがれ、夜道を走って川ばたの材木小屋をみつけてそこに潜んだ。
 負傷した龍馬をそこに残して、慎蔵は薩摩藩邸にうまく走りこんだ。おどろいた薩摩の藩士たちが、材木小屋にかけつけ、無事龍馬を救出した。危険を冒して救援を求めた慎蔵は、龍馬の命の恩人といってもよいだろう。

報國隊軍艦として奮戦
 薩摩の軍艦胡蝶丸は、3月5日に大阪を出港して、薩摩にむかった。その船には龍馬と慎蔵、そして龍馬と結婚したばかりのお竜も乗っている。有名な坂本龍馬とお竜の日本人初の新婚旅行である。慎蔵は下関で下船し、長府藩に京都の様子を報告した。
 その年の6月、第二次長州征伐の幕軍と長州軍との戦い、つまり四境戦争が始まる。長府藩の報國隊は奇兵隊と力を合わせ、高杉晋作の指揮下で小倉口の幕軍と戦った。慎蔵は報國隊の軍監として奮戦、幕軍を撃破した。

慎蔵の墓は功山寺に
 慶応3年(1867)9月、坂本龍馬はオランダ人から買いつけたライフル銃千3百丁をつんだ震天丸に乗り長崎から土佐にむかう途中、下関に寄港した。下関の廻船問屋伊藤家に、竜馬は妻お竜をあずけていた。
 「まさかのときにはお竜と妹の君枝のことを頼む」と龍馬は三吉慎蔵に依頼して、下関を出港、土佐に小銃をおろして京都にむかった。「まさかのとき」は本当のことになってしまった。龍馬は11月15日夜、京都の隠れ家で暗殺されたのだ。
 長府にいた慎三がその知らせを受け取ったのは12月に入ってからである。伊藤家にいるお竜にその悲報をとどけるのも慎蔵のつらい務めだった。龍馬との約束通り、お竜・君枝姉妹を長府の自宅に引き取り翌慶応4年(1868)3月、高知の坂本家に送った。
 慶応4年は明治元年である。維新後の三吉慎蔵は、豊浦藩権大参事となるが、その後、北白川家の家令を勤め、明治23年(1890)に辞任して郷里の長府に帰った。以後は悠々自適して明治34年(1901)2月、71歳で他界した。
 三吉慎蔵の墓は、長府功山寺の国宝仏殿の真裏にあたる三吉家の墓地にある。また慎蔵が住んだ屋敷は、現在の下関市長府南之町・松岡医院の位置がそれである。

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櫛崎城石垣

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毛利家墓所
(長府功山寺)

長府藩36200石初代藩主。毛利元就の四男穂田元清の子として備中猿懸城に生まれます。豊臣秀吉から厚い信任を受け、秀元の秀は秀吉より頂いたのです。
 武将としても優れ、文禄元年豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、輝元に代わって毛利軍の総大将として出陣し、慶長2年の再度の朝鮮出兵には、全軍の総指揮官として、出陣し戦功をあげました。また、この文禄の役のとき、豊臣秀吉が母親の急病を見舞うため船で大阪に帰る途中、下関市彦島沖(関門海峡)で船が暗礁に乗り上げ遭難したのを秀元が救います。
 西暦1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いでは豊臣方に加担し伏見城攻撃に参加しましたが利あらず、毛利氏が防長二州に削封されるや秀元は長府藩を創設。同7年櫛崎城を再築しこれを居城とし近世城下町の基礎を固めます。しかしながら、元和元年幕府の一国一城の令により、1615年閏6月13日櫛崎城を破却し隣接地に居館を造営。1643年9月3日毛利元就の伝記を完成。慶安3年閏10月3日江戸に没し(72歳)泉岳寺に葬られ、長府の功山寺に帰葬されます。また、明治10年忌宮神社内に霊社を建て豊功神社に祀られました。
*尚、平成12年秀元没後350年を記念して、大法要等などが行われました。

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「毛利秀元画像」
狩野探幽筆(部分)
長府毛利家蔵


長門長府藩36200石、第2代藩主。慶安3年11月11日長府藩祖秀元の2男として長府に生まれる。慶安3年11月家督を相続。赤間宮に57石を与え、祖父毛利元清(笑山大居士)の霊位を長府の潮音院に移し笑山寺と改め、寺禄88石を与えるなど敬神尊祖の念深いものがあった。その後、在任わずか3年の承応2年7月2日江戸に没し(38歳)、笑山寺に帰葬される。

長門長府藩第3代藩主。先代の光広の嫡男として江戸に生まれる。承応2年7月光弘の死により同年10月わずか4歳で家督と継ぐ。以後、在任56年の長きにわたり、藩政に意を注ぐ。天和3年「天和御法度」制定により、倹約と衣類の制限など行い、元禄10年には窮民救済の法を定める。また、貞享3年後水尾法皇に和歌5首の勅批の栄を受け、宝永4年名高い歌集「七石集」を著すなど和漢の学にも長じ、藩政においては文武両道の学制を定める。宝永6年3月江戸に没し(60歳)、長府覚苑寺に帰葬される。

長府藩第4代藩主。1713年萩毛利を継ぎ、10月23日元矩が長府藩を継ぎます

毛利元矩(もうりもとのり)
 長府藩第5代藩主。1713年10月23日元朝が萩本藩を継ぐことになり、変わって長府藩藩主となります。1717年3月20日死去。


長府藩第6代藩主。毛利秀元の孫。清末藩主であったが1717年3月29日長府藩主毛利元矩死去により、長府藩に入り遺領相続する。のちに匡広と改名。但し、これにより清末藩は中絶となります。1729年9月19日長府にて死去。覚苑寺に葬られています。

長府藩第7代藩主。1735年4月22日江戸にて死去。

長府藩第8代藩主。1735年6月14日わずか11才で家督を相続。

長府藩第9代藩主。1748年3月12日長府に生まれる。1751年2月4日わずか4才で藩主となります。1751年7月21日重就と改名。1769年9月10日江戸にて死去。

長府藩第10代藩主。1769年8月25日毛利家を継ぐ。1792年死去。


長府藩第11代藩主。1785年11月9日江戸にて生誕。1792年8月14日匡芳の死去に伴い家督を相続します。下級武士から人材を起用するなど、藩政改革につとめた名君として名を遺しています。
 また、歴代藩主の中でも優れた文人藩主として知られ、詩や絵に対する才能をみせ、蘭斎と号し、梅を愛したことから梅趣(ばいしゅ)ともいい、狂歌では梅廼家真門(うめのやまかど)と名乗るなどの多彩ぶりでした。
 風雅の道を愛した藩主の影響を受け、長府藩の文運盛んな一時代を画します。女流俳人田上菊舎などが活躍したのもこの頃です。1841年10月1日元運に家督を譲り隠居となります。1843年4月5日江戸にて死去。

 長府藩第12代藩主。1819年12月9日生誕。1841年10月1日元義の隠居に伴い家督を相続する。1852年閏2月27日江戸にて死去。

長府藩第13代藩主。文化4年生まれ。1852年閏2月27日元運の死去に伴い、同じ年の6月2日家督を相続する。1868年3月5日、家督を元敏に譲り隠居する。
 1868年(明治元年)5月7日長府にて病死。覚苑寺に葬られています。

 長府藩第14代藩主(藩主としては最後の藩主となります)。嘉永2年5月3日生まれ。1849年5月3日江戸にて生誕。1868年3月5日、元周の隠居に伴い家督を相続する。明治に入り1869年6月26日豊浦藩知事となる。1908年(明治41年)4月25日長府にて病死。覚苑寺に葬られています。

長府毛利家第15代。

長府毛利家第16代。

長府毛利家第17代。

長府毛利家第18代。