敬業館
敬業館
1792年(寛政4年)5月14日、従来の門閥格式を越えて、資質に恵まれた人材の登用を必要とし、文武の道を起こすために、藩学敬業館と演武場を長府藩第10代藩主毛利匡芳が創設しました。藩士の子弟は、15歳になると必ず敬業館で学ぶことを義務付けられました。初代学頭は儒者小田享叔。
その後、1864年(元治元年)2月1日四国連合艦隊の襲撃をさけ、ときの藩主毛利元周は勝山の奥に居館を完成させ、そこに移り住みます。そして、同年2月20日敬業館を城内に移して、文学場を講文堂、武術場を練武場と改めました。
旧敬業場跡には、1864年(元治元年)3月、身分の別なく時勢を求める人材を教育しようという考えを元に開校された集童場が移転してきます。
また、1866年(慶応2年)敬業館はもとあった裏侍町に戻ります。この時、集童場を吸収合併し、明治維新後、敬業館は県立豊浦中学校、そして現在の県立豊浦高等学校へと変遷をみます。